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音楽とオーディオに時の散財を続けること三十余年。その無限で多様な世界に、幾多の峰々を望んできた。音響機器は工業製品であるがその目的は、芸術の表現にある。またそれを愉しみ評価するものは、私たちの耳と心にある。ゆえに物理学を総動員して開発されたシステムも、時に楽器となりまた演奏家とのふれあいの場となり、我々を感動の中に魅了する。 |
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システムの前に佇む。音楽が流れはじめる。いつのまにか装置の存在を忘れ、演奏の世界に埋没する、演奏家が現れ、指が、呼吸が、その表情を感じとることができる。やがてミュージシャンの心に到達し、はるか楽譜を通して、作曲家の心の中に響いている曲想までもが再現される。
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究極という詞は便利だが安易である。追い求めたいがこれがなかなか叶わない人の言葉である。追い込めば求めるほどに頂上を極めることができる。そして雲間の頂に到達したとき眼前に展開するものは、遥かかなたに幾重にも連なるさらなる峰々の数々である。究極を極める、しかしその頂点は、一つではない。そこからまた新たなる旅が始まる。
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音は、しかし毎日変わる。時間帯によっても異なる。アンプの回路も毎週となく変わる。あのとき出ていた感動の音が再現できなくなることもある。これは悲しい。今迄と異なった音楽の次元に進化できるときは素晴らしい。すべてのレコードやCDを聴きなおすことになり、これはまさに新たなる発見の瞬間である。 |
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山高きが故に尊からず。一つの峰に辿りついてみるとあらためて他の峰々の偉大さが理解できる。そこに先人の偉大さを見いだし、謙虚にまた一歩を進める。そしてこの成果と先人の求めたるものを次の世代に引き継ぐ。あえて究極というならば、最高度のバランスを実現したシステムの状態である。最高級の装置を集めてつないでも、よい音にはならない。 |
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オーディオの世界には、多くの神話と迷信が語り継がれている。この多くは、科学的な根拠のないものが多い。なんとなれば、よい音というものが定性的、定量的に定義できないからだ。最終的な判断基準は私たちの心の感受性に帰する。 |
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最終評価は私たちの感受性にまかされてはいるが、この感性は、ときとして錯覚する。そしてこの錯覚を利用した意図的なシステムを構築することもできる。しかしこの手法は、絶妙の音を響かせシステムのアンバランスを止揚することがある。さらに上に昇れば真の景観を望めるのだが、しばし一服してこの展望を愉しむのもまたよい。 |
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まずは、物理学と回路理論を総動員して考え追い込んで行く。しかし現実には構成部品は、回路定数どおりの理想動作をしないし完全に解析することもできない。この不完全さが、個性や伝説を生み出す源になる。これに囚われるとそこは底なし沼である。探求は科学的に進める。それでも到達できない世界を垣間見るとき、芸術と科学と精神世界の精妙さに感動する。 |
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1/5/2004
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3/30/2004
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